生い立ち 個人事業主時代「転機」

山本社長から、デザインの仕事を含め様々な仕事を任せていただく中で、二つの転機がありました。

1つ目は、山本社長に
「冷泉は、ウニや!」と言われたことです。

「冷泉のことが、良い人に見える人はいない!トゲトゲしくて、近寄って触れることさえできない、人生は長く、コミュニケーションは一生あるんやで!一生損するで!せっかく中身は美味しいものがいっぱい詰まっているのに!」と言ってくださったのです。

冷泉は、誰からもアドバイスをもらったことも無かったですし(アドバイスしたら怒り出しそうな雰囲気があったのだと思います)また、良いものを持っていると褒められたことも無かったので、その両方を一度に、しかも自然にスーッと冷泉の心の奥の方に届かせてくれたのです。

この時の「スーッ」という自然な感覚が初めてで何かが弾けました。

この時、心に決めました。
「山本さんに付いていきたい」

2つ目の転機は、その時の彼女(現:妻)が、生まれて初めて結婚したいと思った相手だったことです。

その頃の冷泉は、自分が大人としてダメ人間である。ということは重々承知していて、人様のお命を預かるなんて、そんな資格は自分にあるはずがない。結婚は、45歳くらいにならないと出来ないんじゃないか。と思っていたのですが

彼女に会った瞬間「この人のために生きたい」と思ったのです。そんな気持ちは初めてで、この直感は間違いないと確信。彼女と付き合って1年ほど経った頃、山本社長のビジネスが大きくなり、会社を設立することになりました。

その時、大変有り難いことに
「うちの会社くる?」
と山本社長が声を掛けてくださったのです。もちろん「ぜひ!ありがとうございます!」と伝えた後、冷泉は、就職することによって、彼女のご両親に安心して結婚を許してもらえる!と、かなり自己中心的なことを閃き、早速行動に移しました。

まだ勤め始めていないのに、両親との挨拶を済ませて、結婚することになりました。

そして、喜んでもらえるだろうと思いながら、山本社長に結婚の報告をしたら、仰天されました。
「冷泉1人なら何とかなるだろうと思ってたけど、結婚ということなら、冷泉の奥さんも守らねば!」
と山本社長は、仰天と同時に覚悟をされたということです。(山本社長は当時25歳)

冷泉は、凄いプレッシャーを山本社長に与えていることも知らずに、ニコニコしていました。今思うと無茶苦茶な奴だったと思います。当時、まだ冷泉が22歳で、色々な方にご心配をお掛けしたと思います。特に山本社長には、身勝手な行動でこの時も、その後も、たくさんのご心配をお掛けしました。

それからは、就職を機に自分だけでやっていた仕事を友人や知り合いに引き継いでもらい、ChatWork株式会社(旧:EC studio )に晴れて入社し、同時に結婚生活もスタートしました。

ChatWork 株式会社(旧:EC studio)時代へ続く

生い立ち 個人事業主時代

個人事業主になったものの、ビジネスのことは何も分かっておらず、安定した収入などはありません。

格安が売りだったので、ちょこちょこいただくデザインの仕事だけでは、ヒドイ時は、月収3万円の時もありました。実家に住ませてもらって、親のすねをかじり続けていました。

デザイン以外にも、人が集まるホームページを作って(今で言うメディア)広告収入を得たりしていたのですが、ここが残念なところで、安定収入も無いのに、入ったお金はすぐに大半を使ってしまっていたのです。

個人事業主になって1年が経つ21歳の頃、このままではマズイと非常に焦りました。22歳までになんとか実家のお世話にならなくて済むように、仕事をして親に安心してもらいたい。

そこで思い付いたのが、仕事を1件1件営業していただいて回るのではなく、既に仕事が集まっている場所から、仕事を流していただくことを思い付きました。

早速、デザインの仕事を受けているサイトを探そうかと思った時、自分もよく知っている「ホームページ登録ドットコム」というサイトにバナー広告作成のサービスがあるのを思い出しました。

そして、バナー広告作成のサービスをクリックしてみると
「誠に申し訳ありません、只今受け付けておりません」
という感じで、急遽サービスを停止したような形になっていました。

それを見た冷泉は
「これは何かお手伝いできるかもしれない」とピンときまして
GIFバナーもFlashバナーも作れますので、私に何かお手伝い出来ることがありそうでしたら、お声掛けください。というようなメールをホームページ登録ドットコムに送信しました。

これが、ChatWork 株式会社( 旧:EC studio )の山本社長とのファーストコンタクトでした。

その後は、チャットや無料通話のツールを使って、山本社長と打ち合わせをして、すぐにお仕事をいただけることになりました。その頃、山本社長はロサンゼルスに住んでいたため、僕とは半年以上も会わないままだったのですが、その間に何百件もの仕事を進めました。

冷泉は、人に付いて行かない一匹狼なタイプなのですが、山本社長だけは、凄いなぁ、凄い兄ちゃんだ!と会う前から思っていました。

そして、やっと山本社長と会うことになったのですが、冷泉はまだ21歳、PUNKSみたいなボロボロの古着に、茶髪でヒゲも生えてて、顔色も目付きも悪く、汚い歩き方をする兄ちゃんだったので、まさか半年間も一緒に仕事をしていた人物とは思えなかったみたいで、冷泉(21)が声を掛けても、「へ?」といった様子で、通り過ぎていきました(笑)

もう一度呼び止めて、自分が冷泉だということを説明すると
「うわぁ・・・まじで・・・」という山本社長の心の声が聞こえてきました。
それでも、クビにされることもなく、引き続き仕事を任せてくれて、よく食事にも連れて行ってもらいました。山本社長、本当にありがとうございます。

個人事業主時代「転機」へ続く

生い立ち 専門学校時代

コンピューターの専門学校に入り、一生懸命勉強しました。

その頃、Flashで動画を作れるのは珍しく、授業にFlashがなくてもソフトを購入して、勉強して作っていました。すると、クラブで遊んでいた頃の仲間から、ファッションショーの背景スクリーンに流す動画を作って欲しいと依頼がありました。

チラシなら作ったことはあったのですが、動画作成は結構な大仕事で、何日も掛けて作った結果、とても喜んでもらえて、自分も凄く感動したのを覚えています。

動画作成費用として、お小遣いをいただいて思ったのは、実際の依頼は非常に勉強になるということでした。もっと実際の依頼を受けてみたい、勉強したい。顧客開拓の方法も、領収書の存在も、挨拶の仕方も、何も分からない状態だったのですが、やりたい衝動が大きすぎて、授業が終わったら外に飛び出し、何かデザインの仕事があるなら格安でやらせて欲しいと、知っている人に片っ端から声を掛けて回りました。

すると、有り難いことに何件かレスポンスがあり、定期的にポスターやチラシ、ホームページ作成、ロゴマーク作成など、お仕事をいただくことができました。

今思えば、名刺も持たず、時計も付けず、父のスーツを借りて(裏生地に龍の刺繍が入ってた…)スニーカーで金髪ロン毛という怪しさ満開の人間に、仕事をやらせてくれた方々に本当に感謝です。
「お前、社会人1年やな?ヒヨっ子やろ?」(実際は学生…)
と言われて舐められて、無茶をさせられたことも何度かあったけど、ほとんどの方は、冷泉がヒヨっ子なのを承知の上で、仕事を任せてくださったのだと思います。本当にいい経験になりましたし、仕事の面白さを教えていただきました。

ただ、この頃、また冷泉はやらかしたのです。

成績も良かったことから、2社から就職のオファーをいただいたのです。それをなんと、蹴ったのです。なんて調子に乗った奴なんだと自分で思います。不良だった専門学生の19歳が
「これは自分でやれる!」と思ってしまったのです。専門学校を卒業した冷泉は、いきなり個人事業主としてスタートしたのでした。。。

個人事業主時代へ続く

生い立ち 高校時代「転機」

高校生活の後半で、冷泉の人生を大きく変える転機がありました。

それは、左手の手の平を餃子が1個入るぐらいガラス瓶で切ってしまったことです。餃子が1個入るぐらいなので、手の中の骨とか、変な筋みたいなのが見えてて、2本の内1本の動脈も切れて、太い神経も切れてしまいました。鼓動に合わせて、手の平から血が吹き出し、あっという間に冷泉の周りは血の池みたいになりました。

出血多量で気絶したのですが、目が覚めたら救急車の中でした。その日は、救急病院で動脈を縫って閉じ、医者から、左手を動かせる可能性はゼロに近いということと、親指だけ残して後は腐ってしまうから切り捨てる可能性もある。という恐ろしい話を聞かされました。

次の日からは、大きな病院に移り、手の神経の専門医にお世話になることになりました。

その先生が、本当に一生懸命に治そうとしてくださるのです。ただ、当時の冷泉には、なぜ人のために特にこんな人様に迷惑を掛けてばかりだった人間に、一生懸命に良くしてくれるのかが理解できませんでした。

先生のそのスタンスは、1ヶ月経っても2ヶ月経っても、まったく変わりませんでした。他人である冷泉のために一生懸命に治してくださるのです。

すると、だんだん冷泉の心が変わってきました。何か暖かいものが心に芽生えました。素直な気持ちで
「自分も、もし人のために何かできるなら、やらせてもらいたい」
という思いが生まれて初めて出てきました。

「ところで、どうすれば人の役に立てるのだろう?」
色々考え悩んだ末に、それまでクラブのフライヤー(チラシ)作りを人に頼まれたりして、作っていて面白かったので、本気でコンピューターを学ぼうと志しました。コンピューターは、いろんなことが出来るし、本気で勉強すれば、様々な場面で人の役に立てるのではないかと考え「IT」だけは遊ぶ時間を削って、寝る時間を削って、高校卒業の後はコンピューターの学校に通い、死に物狂いで勉強しました。

それからは人生が大きく好転していきました。

専門学校時代へ続く

生い立ち 高校時代

冷泉は、二度と一人ぼっちになりたくないので、高校時代は、中学時代の反省を活かして、自分と仲良くしてくれる方と積極的に交流しました。

恐い先輩たちにも気に入ってもらえて、週末は頻繁にクラブに行って夜遊びばかりしていました。

高校では自分からケンカを売ることはなかったので、自分が直接手を出したことは無く、逆に止める係でした。限度を知らない仲間ばかりだったので必死で止めていました。バトルの中で、漫画みたいに歯が飛んでいくのを何度も見ました。

中学校の時と違うのは、相手の体も完成しているということです。数が多いほうが圧倒的に強い。

ある日、暴走族にしつこく付きまとわれていた女の子から、助けて欲しいと言われて助けに行ったことがあるのですが、相手が10人以上いました。こちらはもちろん一人です。
「これはヤバいなぁ」と思いましたが覚悟を決めて、女の子が嫌がっているから二度と付きまとうんじゃない。ということを伝えると、容赦なくいろんな角度から蹴りやパンチが飛んできた。

下手に応戦して、刺されたりするのは勘弁なので、おとなしく殴られていました。冷泉は殴られることには慣れていて、次第に
「なんでコイツ倒れないの?」「なんでやろ、気持ち悪い・・・」など、暴走族たちの話し声が聞こえてきた。

そろそろやめてくれるかな。と思ったのですが、それは甘い考えで、最後は押さえつけられて、顔をサッカーボールみたいに何回も蹴られて、口と鼻はもちろん、耳から血が出るまで蹴られました。(今思うと、鍛えてない人間にやったら死亡の可能性もありそう…)

で、やっと蹴られ終わりまして。。。

その後は暴走族たちに、なんでそんなに打たれ強いのか?うちのチームに入らないか?など色々言われたのですが、女の子に付きまとっていた本人が
「お前みたいな気持ち悪いやつが近くにいるなら、あの女にはもう何もしねぇよ!」
と、言ってくれたので
「絶対やな?」
「あぁ!絶対だ!」
確認を取って、さっさと家に帰りました。

次の日、母の悲鳴で起きました。布団から顔だけ出てて、その顔が血だらけでパンパンに腫れていたので、死んでいると思ったそうです。お母さんごめんなさい。そんな高校時代。。。

高校時代「転機」へ続く

生い立ち 中学校時代

中学校時代は、喧嘩ばかりだったように思います。

小学校の頃の「見返してやる!」という反骨精神ではなく、自己顕示欲に変わってしまっていて、自ら衝突を好むようなバカになっていました。

違う小学校からの新たな同級生とも、廊下ですれ違うだけで因縁を付けて喧嘩をして、それを懲らしめようとする上級生とも、頻繁に衝突を繰り返す日々。

上級生が7人掛かりで倒そうとしてきても、中学の時って、まだまだ体が完成してないから、体力に凄い差があるのですね(冷泉は、中2で175cmありました)7人の結果はご想像にお任せします。

ただ、この時期、冷泉の周りには、誰も人がいなくなりました。

たむろするのが嫌いだったので、不良の子たちとも馴染めず、不良たちがヤンキー座りをしているところを踏み潰しながら歩いたり。真面目な子も、普通の子も、不良の子も、みんな冷泉をただ白い目で見るだけになりました。

本当にバカだったなぁと思います。

結果、冷泉は遊ぶ友達がいないので、全ての自由時間を日本拳法に投入しました。血尿が出ても練習を止めずに木に向かってパンチを打ち続けていました。

自分が悪かったのは分かっているのですが、この時期は本当に寂しかったです。多分トラウマになっていまして、おかげで今も、とっても寂しがり屋です。そんな中学校時代。。。

高校時代へ続く

生い立ち 小学校時代

小学校2年の頃は、転入生ということでいじめられっ子でした。

みんなに押さえつけられて、顔を蹴られて、両方の鼻から血が吹き出す。自転車に乗ろうとしたら、タイヤもサドルもカッターでギタギタに切られてる。遠いところや建物の中からゴミを投げつけられる。そんなことが頻繁にあって、その時は、とっても腹が立って、ただただいつか見返してやりたいと思っていました。

小学校4年生のある日、父が
「ワシの友達が拳法の先生なんだが、お前、拳法やってみるか?」
と話しかけてくれました。日本拳法という、殴る蹴るは当たり前で、投げ飛ばす、踏み潰す、関節技、絞め技がある総合格闘技でした。

即答で行くことにしました。

それからは、狂ったように日本拳法にのめり込みました。見返してやりたい!これで見返してやれる!今思えば、そんなことに拳法を使ったらダメなのですが、その頃は、いじめっ子たちを張り倒すことしか考えていませんでした。

みるみる強くなって、4年生の時点で同級生にいじめられることは無くなりました。ですが、今度は1つ上、2つ上の学年に目を付けられるようになりました。もちろん自分にも何かしらの原因があったのだと思いますが、なぜ目を付けられたのか分かりません。とにかく、ガタイのいい上級生が「生意気だ」「いいから殴らせろ」と言って、喧嘩を仕掛けてくるのです。

日本拳法は、スポーツとは違って相手を壊すための専門技術なので、本気で取り組めば凶器になります。喧嘩を仕掛けてきた上級生は、タンコブだらけになって、地面に転がって動かなくなる子ばかりでした。そんな小学校時代。。。

中学校時代へ続く